故郷への愛着の話

今月末、前に少し話した大学近くのお弁当屋さんが店を畳むらしい。寂しくはあるが、売り上げ不足などではなく、それ以外の家庭や立地の都合っぽいのでこればっかりは仕方のないことだろう。本日、会社が休みだったので所謂食べ納めをしてきたのだが、あぁ、この味を食べるのも最後なんだな、と一人黄昏ながら大学のフリースペースで黙々と唐揚げ弁当を食べていた(元学生だから許して)。

このようにサウダージ的な寂しさを一人で感じていたのだが、実はこのような感情になったのはほぼ初めてだったりする。今住んでいる町も物心がつく前から住んでいる町ではあるが、実はそこまで愛着があるわけではない。だから多分、今この町が急に大気汚染とかで住めなくなりますってなったとしても、お金出してくれるならまぁいいか、と別の町に躊躇いなく引っ越していってしまうような気がする。

サウダージを感じない理由として多かれ少なかれ父親の影響があるだろう。うちの父親は今で言う転勤族であり、小中と多感な時期を引っ越しだらけで過ごしたらしい。そのため、今住んでいる家を買う前の家を売った時もそんなに抵抗なく売っぱらっていた。資産価値がなくなってきているので高値で買ってくれるなら売り払ってしまおう、みたいなスタンス。そこに愛着もなにも全くなさそうだった。

全く話は変わるが、今月は3月。東日本大地震からうん年経ちましたと口酸っぱく言われる時期である。宮城が福島が故郷が、と引っ越しするのは嫌ですという人のインタビューがたくさん流れてくるシーズンでもある。故郷を捨てたくないという感覚が全く理解できなかったため、何を言ってるんだこいつらはという感じでテレビを眺めていた私であるが、今日やっと彼らの気持ちが少なからずわかったような気がした。勿論、IT系の職だからどこで働いても全く変わらない私と自然を相手にしてる人では全く条件が異なるので、全てを理解したつもりではないが、少なくとも何かサウダージに近い感情、という意味では一歩歩み寄れたのかなと一人で納得したりした、という話。

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