眠りの姫に救いの未来を_エピソードL

1

 目が覚めて、最初に感じたのは痛みだった。

 よくわからないが、どうにも床に叩きつけられたらしい。ここはどこだろうか? さらっと周りを見渡してもさっきまでいたところではないことはわかる。

私はここで何をしているのだろうか。ここに来た理由は。様々な疑問が頭が出てくるが、何もわからない。

 しばらく考える。私はさっきまで何をしていただろうか。仕事場へ向かおうと新宿の町を歩いていたはずなのだが。それ以外の事を思い出せない。

このままここでぼんやりとしていていいのだろうか。考えがうまくまとまらない。

 暖かい日差しを受け、考える。日差し……?

 見上げた視線の先は、生い茂る木々、そして明るい空が見えた。しかしそこに至までの道のりは遠い。最初に感じた痛みはそこから落とされた時に生じたものだったようだ。痛いで済んだのが奇跡のように感じる高さである。

 つまり、よくわからないけど、私は穴に落とされてここにたどり着いた、と。なるほど。

なるほど、納得はしたが、そうじゃない。何故私は都会のど真ん中で穴に落とされるような状況にあったのだろうか。わからない。更に言うと、何故この穴は木々で覆われているのだろうか。これじゃまるで兎の巣か何かだ。

 あれこれ考えた結果、なにもわからなかった。どうしろというのだ。私に。

さっき見回した時に、先へ進む道を見つけた。先へ進む事は可能だろう。しかし戻る事はできないだろう。それなりに運動ができる体ではあるが、流石にスーツをきたままこの穴を登るほど、私の運動神経はよくない。

 さっき落ちた時に脱げたと思われるパンプスを履く。進もう。そう思った。ここにいては何もはじまらない。

 兎の穴のような洞窟を先へ進む。途中からあたりの情景が変わってきた。洞窟の様な見た目から一転、おとぎ話に出てきそうな風景になった。そう、それはまるで子供の頃に読んだ童話のような……

2

 メルヘンな廊下をしばらく進むとハートが描かれた小さな扉が見えてきた。私でもなんとか通れそうな扉である。ここまできたのだ。思い切って扉を開ける。扉の先にはいくつもの扉が取り付けられた廊下が続いていた。

 扉、扉、扉。本当に扉だらけだ。一応目視できる範囲に廊下の果てがある。しかしそこにも扉がある。廊下の中央に小さな机がある。机の上にはなにかが置いてあるが、とりあえずこの廊下をいろいろ見て回らないことには始まらないだろう。

 幸か不幸か、扉は一つも開かなかった。メルヘンな扉。お菓子の扉。機会仕掛けの扉。ダークオークの扉。鉄の扉。ガラスのものと思われる扉。狂気を感じさせる扉。学校を彷彿とさせる扉。実家で見たことあるような扉。どう見ても風呂場に繋がっていそうな扉。画家が描いたと思えるようなデザインの扉。これだけ扉があれば一つや二つくらい開いてもおかしくはないと思うのだが、一つも開くことはなかった。すべての扉のノブを回してみたが、虚しい努力に終わった。

 正確に言うと、一つだけ開くことには開いたのだ。問題は開いたかどうかではない。通れないのだ。扉があまりに小さすぎた。およそ二十五cmくらいの身長の人間ではないとくぐれないのではないか、と思われるほどの大きさの扉なら開いた。しかし私の身長は百六十程度はあったはずなので残念ながら潜ることもできない、というわけだ。

 こうなると後調べていないものはただ一つ。廊下の中央に意味ありげにぽつんと置かれた机である。目を向けないようにしていたが、怪しげな黒い物体がその上に鎮座している。さてこれは何なのだろうか。私にはどう見ても焦げたパンにしか見えない。

 恐る恐る近づく。怪しい黒い焦げ模様がついたパンである。近づけば近づくほどパンに見えるようになったが、部屋に入った瞬間の角度では黒光りするGに見えなくもない物体である。探索を最後にする気持ちも察して欲しいというものである。

 さて、この怪しげな空間にてそびえ立つこの摩訶不思議なパンは一体何者なのだろうか。黒焦げなのも意味不明であるが、そもそもこの空間にパンがあるということが既に理解不能だ。

 パンの周りを一周する。遠目にちらちら見るが、ごく一般的な焦げたパンにしか見えない。恐る恐る触れてみる。触った限り焦げたという一点を除けば普通のパンだ。試しに手にとってみる。パンに触れていた部分の机に何かが書かれていたというわけでもないらしい。ではとパンの裏側を見てみる。やはりというかなんというか、書かれていたのはこちらであったらしい。なになに……

 俺を食え

 俺を食え? どういう意味?

 頭の中にたくさんのハテナが浮かぶ中、それは起こった。手の中のパンが突然動き出し、私の口めがけて飛んできたのである。

 何を言っているのかわからないと思うが自分でもわからない。ただ突然、私の心の準備が整う前に、そのパンは私の口めがけて飛んできたのだ。

 あまりに突拍子もない出来事に対応できず、私は開いた口に入るパンを止めることもできずに受け止めてしまった。慌てて口から出そうと躍起になるが後の祭り、既に半分が口の中に入ってしまっている。最後の足掻きとして口の中のパンを取り出そうとするが、どうにも意味のわからない力で口の中に進み続けているらしく、口の中から出せる気配もない。しばらく奮闘してみるが、口に放り込まれているパンのせいで息も苦しくなってきた。これ以上は持たない。口の中に広がる、焦げたくせに妙にうまそうなパンの香りも手伝い、なんだがパン相手に戦う自分がアホらしくなってきた。もしかしたら毒が入っているかもしれない、とか、焦げたくせに妙にうまそうな匂いがするのでもしかしたら怪しげなものが入っているかもしれない、とかいろいろ考えるべきことはあったのかもしれない。しかしそれ以上に顎も疲れ、息苦しかった。早くこの虚無感に包まれた戦いから解放されたかった。口に含まれたパンを噛む。そして味わう。美味しい。なんだ美味しいじゃないか。そのままパンを飲み込み、最後まで味わって食べることに成功した。

 飲み込むこと十数秒。特に何もなさそうなのでホッとしていた、その時異変が起こった。ひどい目眩と立ちくらみと共に周りの景色が変化する。この感覚、前にもどこかで……

 周りの景色が歪み、暗くなる。そして謎の布のようなもので覆われる。これは穴の近くで目を覚ました時と似たような状況だ。今度はどこに移動したのだろうか。しばらくして目眩もおちついたところで立ち上がり、布をかき分け外へ出る。外へ出ると、周りの扉と机が妙に大きくなっていたこと以外は何も変化はなかった。

 否、変化はあった。なぜが服が脱げていて、今の私は全裸だった。

 ひっ……!?

 思わず情けない妙な声が出てしまった。パンプスだけ履いてるとかいう高等なプレイか何かかと思っていたがそんなことはない。ジャケットもシャツもスカートもストッキングもパンプスもショーツもブラもすべて失われていて、生まれた時の姿であった。

 ちょっと、なんで……?

 声に出てしまったらしく、思った以上にシュールな自分の姿とシュールなつぶやきが部屋に響く。おそらく今、最高に阿呆な絵面になっていると思う。慌てて布の中に隠れこむ。布の中で落ち着くために深呼吸を繰り返す。落ち着いてきたので周りを眺めていると状況が少しづつわかってきた。

 まず、私はどこにも移動していない。これは先ほど外へ出た時の景色から明らかである。しかし妙に部屋の景色が大きくなっていた。そして机も大きくなっていた。極め付けにはなぜか裸の自分。さてこれらが意味することとは。

 結論が出た。あり得ないが、それしか考えられない。勇気を振り絞り布の外へ出る。そして大きな布を広げる。悲しいかな、自分の考えと事実は一致していた。

 さきほどの大きな布たち。それは先ほどまで私の裸体を隠していたはずの服たちであった。まだ私の体温がほのかに残っていたようだが、広げる過程で全て失われてしまった。そして服も部屋も机も私を除いて大きくなったとはとても考えにくい。どう考えても私だけが小さくなってしまっていた。

 原因は先ほどのパンだろうか。そうだとすると私は大変なものを食べてしまったことになる。人類の歴史上初の体が縮んでしまった人間ということになる。体が縮んで小学生になってしまうわけではなく、手のひらサイズにまでなってしまったのである。こういう時は服ごと手のひらサイズになるはずなのだが、どういうことだが自分だけが小さくなったらしい。

 後悔しても仕方ない。今更大きくなる手段もなさそうだ。ジャケットの胸ポケットに入れてあったハンカチで体を包み、立ち上がる。最低限の装甲ではあるが、これで人にあっても最悪なんとかなるだろう。もっとも、この身長であることが一番の問題といわれてしまえばそれまででもある。

 体が縮んでしまったことで一つだけメリットが生まれた。それは例の潜れなかった扉を潜れるようになったということである。つまり先に進めるということである。先に進まないと現状を打開できない。勇気を振り絞ってハンカチを纏い扉をくぐる

3

 扉の先はどうやら服屋のような何かであるようだ。それこそ大手の服屋ではなく……。どちらかというと仕立屋に近いのかもしれない。

 あたりを見回す。ひとまず探索をすることからはじめなければならない。ゲームでのお約束は案外、現実でも役に立つものである。特に今は靴なんていう高尚なものを身につけていない。足元に棘や針が一つあるだけで致命傷なのだ。今まで以上に慎重に探索をする必要がある。

 反時計回りに探索を始めると、最初に目についたのは大きなミシン台だ。ここを登れば上からの景色が見えるので遠くまで見渡せそうではあるが、残念ながら上に登る手段はなさそうだ。上に登るための足場がない。台を支える足はあるが、作業台まで一直線に伸びている。登り棒にするにも今の身長では流石に高さがありすぎる。別のところを探したほうがいいだろう。

 次に目がついたのは大きな収納ケースである。上の方は布がしまってあり、下は引き出しのついた収納ケースとなっている。引き出しを一つずつ開け、上まで登る階段にできないだろうか。試しにお手頃な高さにある一番下の引き出しを引っ張ってみる。しかし自分の力が足りないのか、はたまた先ほど見た数多もの扉と同じなのか、全く開くことはなかった。つまり扉を階段にすることはできない。取手を梯子代わりに上まで登ってみようか。しかしそれはまだ見てない東側を探索してからでも遅くはないだろう。ひとまず探索を再開することにした。

 中央の台は接客用の台だろうか。東側を西側を繋ぐ通路の近くには完成したと思われる服をたくさんかけるハンガーがある。ハンガーと中央の台が近く、中央の台に登れればミシン台と同じ理由で高台からこの部屋全体を見渡せるはずである。しかしハンガーの上に登るためにはポールを登り棒するか、ドレスクライミングをしなければならない。どちらにせよ、収納ケースを登るよりはるかにリスクの高い行動である。あまり得策ではないだろう。中央の台を挟んで東側のエリアへ向かうことにする。

 中央の台を挟んで、東側は仕立屋の入口らしく、こちらは開けた作りになっている。入口の大きなドアはドアノブに手が届くわけもなく開くこともできないが、そもそもガラス張りの扉の向こうは漆黒でなにも見えないのでここから先へ進むことは諦めたほうがよさそうではある。

 さて、と中央の接客用の台を見る。右手に先ほどのハンガー、左手に最初に確認したミシン台、正面の台の向こうに収納ケース、という布陣だ。中央の台にはなぜか大量の裁断鋏が刺さっている。おぞましい光景であることには間違いないのだが、いかんせん、自分の服がなくなったこと以上のトラブルではないし、まだ現実味を帯びているので驚かないというか、いまいちインパクトに欠けるというか。

 しかしこの裁断鋏、よく見ると鋏が開いた状態で刺さっているものが多く、持ち手を足場に上の台まで上がることができそうだ。自分の体重で鋏が曲がってしまわないかとか、落ちてしまわないかとか懸案事項は多々あるが、この体である。案外軽かろう。一番低いところにある鋏に乗り、それを確信をする。相当鋏の上で暴れない限り鋏が曲がることもなければ抜けることもなさそうだ。問題は靴がないので上に上がるまで鋏になるべく足を触れることなく登るべきだという点のみで、おそらく慎重に登れば問題ないだろうと、思う。

 鋏を足場に上へ登る。相当な数が刺さっているので足場選択に困ることもなくすいすいと上へ登ることができている。しかしこの相当な数の鋏がどのような経緯でここに刺さることになったのだろうか。中にはよくわからない布を貫いた状態で刺さっている鋏もあったり、あまり想像したくない液体が付着した鋏もあったり、どう見ても刺さるほどの切れ味を持っていないデザインの鋏が刺さっていたりと十人十色の鋏が刺さっている。人の体が縮むような世界だ。あまり考えても仕方ないのかもしれない。

 もう少しで台の上というところの鋏に足をかけ、体重をかけたところで嫌な音がした。何事かと足元を見るとこの鋏、実はあまり深く刺さっていなかったようで、私が乗ったのを機に抜け始めてしまったようだ。しまった。このままでは鋏が抜けて落ちてしまう。どこかの鋏に着地できるかもしれないが、着地した鋏が勢いに耐えられる保証もない。さっさと最後の鋏に乗り移るのが吉だろう。そう思い、体重をかけ、鋏を飛び出した。つもりだった。

 思ったほど体は宙を飛ばなかった。当初の予定では持ち手あたりに腰が来て、ハンカチを整えつつ上に登り台に手をつける予定だった。しかし持ち手は胸元にあたり、強打した。変な声が出かけたが、なんとか持ち手に捕まることができた。

 何事かと両手で持ち手を持ちつつ後ろを振り返る。先ほどの鋏は轟音を立てつつ下に落ちている。どうやら飛ぶときの力に耐えられなかったようだ。

 なるほど、と納得している場合ではない。この鋏に乗らなければ落ちてしまう。慌てて力を入れて持ち手に足をかける。なんとか持ち手に両足をつけることができ、一息つけた。しばらく座っていて息も落ち着いた頃に立ち上がる。

 しかし今度は後ろに力がかかる。どうやらハンカチが持ち手の間に挟まってしまったらしい。思いの外勢いよく立ち上がったらしく、びりっという音と共にハンカチが宙を舞う。なんとかハンカチをつかむことには成功したが、今度は鋏の上でバランスを崩す。このまま落ちるよりかは裸のまま机の上にダイブしたほうがマシだと判断し、ハンカチを片手に台めがけ飛び出した。

 宙を舞う。情けない姿勢ではあったが、なんとかハンカチと共に台の上に着地することに成功した。ハンカチを巻き直し、一息つく。危なかった。普段身につけている衣類が如何に脱げにくいものなのかを噛み締め台の上の探索を開始することにする。

 ズタボロのハンカチと共に机の上の探索を開始する。せっかく高台に登ったので周りの景色を見てみることにする。高台に登って改めて周りを見回してみるが、ここから周りを見ても下から見た景色と大して変わらないことがわかった。それ以上にきになるのは机の上の方である。

 まず目に入ったのは意味もなく机の上に鎮座する扉だ。どこぞのたぬき型ロボットが出す扉のごとく、どこかと繋ぐわけでもなく扉が立っている。しかも片方にしかドアノブがなく、律儀に一方通行であることがわかりやすくなっている。試しにあけてみたが、扉の先はこの仕立屋とはまた別の世界につながっているようだ。

 次に目に入ったのが机の真ん中に鎮座するドレスだ。烏の羽のデザインがあちこちに施され、その色は烏の濡れ羽色とも言える漆黒のドレスである。それが、目の前のマネキンが着ている。ご丁寧に靴まで烏をモチーフにしたと思われるデザインで、素人の私でも美しいと感じた。ゴシック風のドレスを意識して作られたのだと思う。それでも、素材の色が、烏の濡れ羽色だけあって、とても美しいと思った。

 さて、片や美しいドレス。片やボロ雑巾の私。しかしこのドレスである。流石にこの年の私が着るのは気がひける。かと言って裸足のほぼ全裸の今の服装でこの先のドアをくぐる勇気は私にはない。周りに誰もいないのをいいことに、私はこのドレスをいただくことにした。

 不思議なことに、このドレスは私の体にぴったりであった。律儀についていた下着や靴も込みで私にぴったりだったのだ。胸元まで違和感がないので少々薄気味悪かったが、ボロ雑巾しかなかった私にはとてもありがたいものである。目の前に立てかけてある鏡に全身を写す。どこかの国のお姫様か何かかと勘違いしそうな風貌に仕上がったが、顔が私なのを確認して少しゲンナリした。顔以外を見て一人満足することにしよう。

 さて、満足も済んだところで探索を再開することに。とは言っても机の上は扉とドレス以外特にめぼしいものはなく、残すは扉の先へ進むことのみとなった。

 この扉である。私が服を失った例の廊下の中にも似たような扉があったような気もする。ダークオークの扉だ。ドアノブをねじり、勢いよく開く。そして扉の先へ進む。

4

 扉の先は先の方に見える光源以外は漆黒であった。振り返ると扉もなくなっていたので、光源を目指す以外に選択肢もなくなった。

 光源にたどり着くとそこは扉があった。これまた例の廊下で見たような気もする扉である。進むしかないので進むことにする。

 扉の先は薄暗い。そして目の前にはピアノの鍵盤でできた螺旋階段がある。螺旋階段の壁は夜空のような星が散りばめられたロマンチックな壁だ。

 黒鍵につまづかないように階段を下ることにした。

 鍵盤でできた階段をひたすらに降り続ける。紆余曲折あってこんなドレス姿になってしまった。街中にこんな姿で放り出されたらいい年なのにと白い目で見られるし、何より恥ずかしい。誰もいないこの歪んだ空間はそういう意味では都合がいい。

 しかし、この階段はどこまで続くのだろうか。真ん中から下を見ても終わりが見えない。ここまで来た以上、降り続けるしかないだろう。

 しばらく降り続けると少しずつではあるが、周りの光景が変化していることに気がついた。まず壁。この壁の星が少しずつ減っている。そして、黒い部分が減り、赤黒くなりつつある。そして、足元の鍵盤も少しずつではあるが、黒いシミが増えてきている。そして先ほどまで使っていたはずの天井につられていたメルヘンなオブジェクトは少しずつ数を減らし、ただ紐が吊るされているだけになっている。なんだか不気味な雰囲気になってきたような……

 さらに進む。さきほど感じていた変化は如実になってきた。というかむしろ狂気を感じる方向に変わってきた。メルヘンなんて要素はすっかり消え失せてしまった。壁にあった輝いていた星は完全に消え失せ、赤黒い壁に、行く手を照らす薄気味悪い蝋燭がかかっているのみである。ピアノの鍵盤はもはやシミだらけ、ところどころ欠けている箇所もある。一番変わったのは吊るされているオブジェだろう。ある地点、おそらく星が完全に消えたあたりだ、では紐だけが吊るされていた。しかしその地点を超えてからまたオブジェが吊るされるようになった。そのオブジェは目に始まり、腕、足、指等、人の体の一部を切り抜いたパーツになっていた。目を見てうっすらと感じてはいたが、このパーツ、すべて私の体の形や色とそっくりなのである。薄気味悪いなんて次元じゃない。吐き気を催すレベルである。

 流石に引き返したいと思って後ろを見て、前に進むしかないことを悟る。後ろの鍵盤は腐っていた。一歩踏み込むことすらためらうレベルで。進もう。

 さらに下る。おそらくここが最下層だ。周りの景色の変化を見て悟った。赤黒い壁には血管を模したと思われる管が張り巡らされ、鍵盤はボロボロ、吊られていたオブジェは目、腕、足、指に加え鼻、髪束、耳、胸、口、と部位を増やし、おそらくすべての部位が吊るされるようになった。もうこれだけで嫌なのに、時たま壁から目や口が現れ、意味不明なつぶやきを始めた。もう嫌だ……。しかしここが最下層である確証がある。おそらくもう少しだ。もう少しでゴールがあるはずだ。その希望のみを胸に最期の階段を下る。

5

 長く、辛かった階段もついに終わりを告げた。最下層は床も謎の血管でできていると思っていたのだが、違った。最下層の床はあろうことか、私の会社のロビーと同じ床だった。そしてそこには私の顔写真と名前がかかれたIDカードが転がっていた。どうしてここにこんなものが。触って確かめたが確かに私のものだ。全くわからないが私のものであることは確かだ。もらっておこう。さらにあたりを見回すと血管的な壁の一部に私の会社の入り口と同じ扉があった。扉というか、入口全体がそこにめり込んでいるような感じだ。このような場所は見たこともないし、こんなところとつながっている会社に就職しようとした記憶もない。扉も律儀に同じものであり、おそらくこのIDカードがあれば開くのだろう。

 頭の中に疑問符が浮かんでは消えてを繰り返しているが、おそらくこの先に進めばすべてがわかるのだと思う。これが最期の扉になることを祈り、私はIDカードを認証装置にかざした。本人であることを確認した旨を述べると認証装置は扉のロックを解除してくれた。進もう。

 扉をくぐるとそこはみたことがない場所だった。若くしてある程度の役職についたわたしは会社の建物なら一通り見て回ったと自負している。しかしこのような場所は見た記憶がなかった。なにやら実験装置のようなものが所狭しと並んでいて、機械もたくさんある。その中の機械の一つに、入口のものと同じ認証装置があった。IDカードをかざす。すると機械が起動し、奥の暗くて見えなかった装置の電源がついた。

その装置を見て、思わず息を飲んだ。そして、すべてを思い出した。そうだ、私は会社に行く途中に……

 その装置には、安らかな顔で眠る、数多もの管に繋がれた私が入っていた。

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